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文久4年1月23日(1864年3月1日)

【京】第5回朝廷参豫会議:1月21日の宸翰は将軍への「内諭」
【京】春嶽、慶喜と幕府要路の疎隔を憂い、中根雪江に融和を周旋させる
【京】武家伝奏を1名追加し、坊城俊克就任/

■朝廷参豫会議
【京】文久4年1月23日(1864.3.1)、参内した朝議参豫に対し、近衛前関白は去る21日の宸翰は「内諭」であり、来る27日に公式な沙汰を下すと告げました。

参豫側は一橋慶喜(後見職)・松平春嶽(前越前藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)・島津久光(薩摩藩国父)の4名が参内しましたが、伝奏より今日は議事がないので勝手に退出してよいと伝えられました。(次回は27日にと通達されました)。

宗城が、近衛(前関白?)に対し、1月21日に家茂に下された宸翰(こちら)は勅書を広く諸侯以下に発表すべきかどうかを尋ねました。これに対しては、近衛は、(1)1月21日の宸翰は将軍への「内諭」なので公然と諸侯に告げてはならない、(2)来る27日に将軍に参内を命じ、表立って沙汰を下す予定である、と回答しました。

<ヒロ>
前日、幕府は、登城した大名にも宸翰を発表すべきかどうかを春嶽らに相談し、春嶽は、明23日の参豫参内の折に自分たちが朝旨をうかがうのでその結果次第で決めてはどうかと助言していました。宗城の質問はこのやりとりを受けたものになっています。

表:これまでの朝廷参豫会議の出席参豫と主な議題
日付 慶喜 春嶽 容保 宗城 容堂 久光 主な議題
1 1/5 × 書付の下問のみ
2 1/8 × × 久光官位問題の下問
3 1/11 × × 将軍参内日程、久光官位問題の下問
4 1/13 × × 11日の下問の回答(新たな議題なし)。
5 1/17 × × 将軍参内手続き、公武一和の方針
6 1/23 × × 朝議なし
(宸翰公表是非に関する質疑応答あり)

参考:『続再夢紀事』ニp370(2009/4/4, 2010/1/3)
関連:■テーマ別元治1「参豫会議」 「将軍への二度の宸翰

【京】文久4年1月23日(1864.3.1)、前越前藩主松平春嶽(前総裁職)は、後見職一橋慶喜と幕府要路(総裁職松平直克始め)の疎隔を憂い、藩士中根雪江・酒井雪之丞に融和を周旋させました。

この日、中根と酒井は、総裁職・川越藩主松平直克の旅宿に家臣の山田太郎左衛問を尋ねました。四天王兵亮もやってきて同席しました。話の概容は以下の通り。

中根
酒井
近頃、幕府の景状を考察するに、一橋公と閣老以下緒有司との間が、なんとなく隔意があるようである。この時節柄、そのようなことがあってはどのような不都合を醸成するか測りがたい。何とかこれを融解する方法はないだろうか。
山田
四天王
元来、この隔意を惹起させたのは、橋公が「余りに自力を負み人言を容れられざる」ことによるのではないか。昨年、江戸を出立された以前は、会津候は大樹公に御上洛あるよう言上されたが、橋公は自ら大樹公に先立ち状況しようと申され、諸有司はいずれも異議を唱えたが聞き入れられず、その後、薩州候より橋公に御上京をお勧めになり、朝廷からも上京の御沙汰あるにいたっては、なお紛々異論を立てる輩があるにかかわらず、しいて出発された。その他、今回も、総裁・閣老には謀らず、独断をもって事を結構されることが多い。そのために今日の景状に及んだのである。しかし、一和に至らなければ不都合であるので、両名とも心痛し、過日来、しきりに尽力してきた。すでに昨日も山形藩岩崎善右衛門に内談したが、彼も同様に心痛しているとのことだった。かれこれ相談し、会津候がこの周旋を負担されれば融解に至るだろうという結論で終わった。
中根 会津候が負担されれば融解に至るだろうとの御意見は、同候の位置という観点からは、申し分なく、頗る妙案とも申すべきである。しかし、同候は「斯かる事の周旋ハ其長所にあらす」。
山田 最初、平岡円四郎に相談したのだが、行き届かなかったので、会津候ならと気づき、相談に及んだのである。しかし、その「長所にあらす」との御意見も、実は「さもあるへし」。この上は、どうすればよかろう。
中根 畢竟、御双方とも、疎情が原因でこのような景状に至ってしまったので、今後は頻繁に御集会され、懇親を結ばれることが肝要ではないだろうか。
山田
四天王
(同意して)今後、度々お会いになるよう促すこととしよう。

<ヒロ>
1月15日、入京・二条城入りした将軍や総裁職・老中は、登城した慶喜から話をきくと大いに喜んだそうで、将軍は慶喜に「万事依頼」すると述べ、老中の慶喜に関する「従来の嫌疑」も「氷解」した模様だったというのですが(こちら)、そう簡単に隔意が解消したわけでもいかなかったようです。1月20日に、将軍に内大臣の内三旨を伝える勅使が派遣されたときも、二条城内に慶喜に準将軍宣下との噂が流れ、一時騒動になっており(こちら)、朝廷参豫となっている慶喜への疑心暗鬼がうかがえますよネ。

参考:『続再夢紀事』ニp370-372(2009/4/4)

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